聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)



聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代に活躍したとされる日本の政治家。

父は用明天皇、母は欽明天皇の娘である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。子には山背大兄王らがいる。

本名は厩戸(うまやと)で、厩戸の前で出産したことによるとの伝説があるが、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。別名、豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子は後世につけられた尊称であるため、現在、日本の学校教育では正称である「厩戸王」と呼んでいる。聖徳太子に関しては謎も多く、聖徳太子は存在すらしなかったのではないかとする説もある。



生涯
敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。

幼少時から聡明で仏法を尊んだとされ、様々な逸話、伝説が残されている。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇が崩御して父の橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。政治の実権は馬子にあり、これに不満な崇峻天皇と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。

同年、太子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧彗慈が渡来し、太子の師となり、隋が官制が整った強大な国で仏法を篤く保護していることを教えられた。

推古天皇8年(600年)、初めて遣隋使を派遣した。同年、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。

推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。


飛鳥寺 聖徳太子立像推古天皇10年(602年)、ふたたび、新羅征討の軍を起こした。同母弟の来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟の当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。

推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。 氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったとされる。

推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。(津田左右吉などはこれを後世の偽作であるとしている)

推古天皇13年(605年)、斑鳩宮へ移り住んだ。

推古天皇15年(607年)、小野妹子、鞍作福利を遣隋使として隋に送った。国書には「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「日出處天子致書日沒處天子」『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)」との文言があり、隋の煬帝を、無礼である、二度と取り次がせるな、と大いに不快にさせた。この国書は、太子が大国隋と対等の外交を目指していたと従来、言われている。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の倭国と結ぶ必要があり、翌年、隋は返礼の使者である裴世清を倭国へ送った。

太子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。

推古天皇28年(620年)、太子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れていた太子の回復を祈りながら太子の妻、膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌日太子は亡くなった。

太子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行い、隋、高句麗、百済の進んだ官司制をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。


名称関連
聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した次の史料が初出とされる。
『懐風藻』(天平勝宝3年・751年)に編纂とされる)。
『日本書紀』(養老4年・720年):敏達天皇の妃推古天皇についての記事に「豐御食炊屋姬尊為皇后 是生二男五女 其一曰 菟道貝鮹皇女 更名 菟道磯津貝皇女也 是嫁於東宮聖コ」と見えるが、「聖徳太子」という名称は記されていない。
顕真の著『聖徳太子伝私記』に引用される「法起寺塔露盤銘」(慶雲3年・706年という)に「上宮太子聖徳皇」と見える。
聖徳太子の他にも厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳、上宮王…と様々な名前で呼ばれるが、一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子」とされてきた。しかし上記のように「生前で用いられていた名称ではない」という理由から、現在の教科書では「聖徳太子(厩戸王)」となっており、今後「厩戸王(聖徳太子)」、「厩戸王」と徐々に変更されていく予定である。つまり数年後〜数十年後に彼の一般的な呼称は「厩戸王」となる可能性が高い。

聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)聖徳太子の肖像画は過去に紙幣(日本銀行券)の絵柄として何度か使用されている。特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されていた。
※【天王系】聖徳太子を生前に助けた従兄弟の蜂子王子が東北の日本国の山形県出羽三山の羽黒山羽黒神社を開山し全国の羽黒神社の元祖。


聖徳太子にまつわる伝説

新井薬師寺 16才の聖徳太子像以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。

なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている記紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、相当の脚色が加わっていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。 また、各地に聖徳太子が建てたという寺院が多いが、後世になって縁起で創作されたものが多いと思われる。


豊聡耳
厩戸皇子がある時、人々の請願を聞く機会があった。 我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したと言う。 この皇子の聡明さを讃えて、これ以降 皇子は豊聡耳(とよとみみ)とも呼ばれるようになった。しかし実際には、そうではなく、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。

なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」(とよとみ)はこの「豊聡耳」からつけられたとされる。


四天王寺
蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てた。


南嶽慧思の生まれ変わり
中国禅宗では、既に唐代において、聖徳太子は天台宗開祖の天台智の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるという説がまことしやかに囁かれている[要出典]。恐らく、仏教信仰の厚い聖徳太子の人となりが大陸にまで伝わり、そこから生まれてきたのであろう。


出生の伝説について
「厩の前で生まれた」、「母の間人皇女は救世観音が胎内に入り、皇子を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる。さらに空想をたくましくして古代イスラエル民族と直接に関連するという日ユ同祖論を唱える極端な仮説[要出典]も存在する。

しかし一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。


墓所

叡福寺 聖徳太子墓墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている。しかし、実際は後世になって太子信仰が盛んになった時に定められたものと考えられ、信憑性は定かではない。














聖徳太子の著作
『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)。このうち『法華経義疏』は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっている。
『四天王寺縁起』は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。
『十七条憲法』は、『日本書紀』中に全文引用されているものが初出。
『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』は、『日本書紀』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。
『先代旧事本紀』は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。
『未来記』は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。
この他にも聖徳太子に名を借りた(仮託)偽書は多い。


聖徳太子の史的存在
聖徳太子は信仰の対象として、その事蹟には多くの潤色が含まれている。 教科書での呼称を「聖徳太子」から「厩戸王」に移すなど、これを歴史上の人物(厩戸王)として見直す動きは進んでいるが、その困難の理由を3つ挙げることができる。

文献史料の不足
彼に限らないが、国内の文献史料は720年成立の『日本書紀』を遡ることができない。その『書紀』にしてすでに厩戸王は「聖」としての潤色に包まれている。
物証の不足
後の伝説に厩戸王の子とする(『日本書紀』では厩戸王の子という記述はない)山背大兄王と一族は643年に絶えており、居宅であった斑鳩宮も消失している。645年、蘇我蝦夷邸が消失し、厩戸王と関係の深かった蘇我氏本宗家はこの変で滅亡している。斑鳩寺(のちに法隆寺)も670年に消失しており、物証がほとんど望めない。
信仰の壁
聖徳太子は一宗派の信仰ではなく、仏教であるか神道であるかを問わず、日本史上もっとも偉大な人物という信仰が拡がっている。たとえ歴史の問題のみに切り離そうとしても、聖徳太子は日本の律令国家誕生の先駆者であるという考えが深く根付いている。
江戸時代、林羅山や懐徳堂の中井履軒らは、『日本書紀』の記載に反して、聖徳太子を崇峻天皇暗殺の首謀者と考えた。また、水戸学の祖となった徳川光圀や尊王論の頼山陽も太子が仏教のような誤った教えを広めて国を衰微させたと批判した。

これらは儒学(仏教は人間にとって最も重要な忠孝の基礎である主従や家族関係を世俗のものとして排除しようとしている)・国学(仏教の伝来によって日本は本来の神国としてのあるべき姿を失ったとする)の立場からの聖徳太子批判とも見られる。

『日本書紀』の史料批判を通じて聖徳太子の事蹟を検証し、その多くが後世の仮託であることを指摘した、近代における代表的研究者には、津田左右吉、小倉豊文、田村圓澄らが居る。

これに対し『日本書紀』の記述に問題があるとしながらも、おおむね肯定する研究者として坂本太郎が挙げられる。


聖徳太子についての諸説(定説でない仮説)

聖徳太子虚構説
聖徳太子が実在したこと自体を否定する仮説がある。

この説によると、厩戸王の事蹟で確実なものは冠位十二階と遣隋使の2つしか残らないという。

これら2つは『隋書』に記載されているが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子である厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。 この仮説の代表的な論客は大山誠一である。大山は、飛鳥時代にたぶん斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の実在は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。

大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。従来の論者とは違い、大山は古代史分野において実績のある大学教授であったことから大きな反響を呼んだと考えられている。

ただし、これ以前にもこうした虚構説あるいは架空説は存在しなかった訳ではなかった。例えば高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)では、聖徳太子と厩戸皇子は別人で実は蘇我馬子の子・善徳こそが真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った残虐非道な架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版している。谷沢永一が『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。


聖徳太子即位説
聖徳太子は実は大王として即位したという説もある。


兄=推古、弟=聖徳太子説
聖徳太子即位の問題については、上記の『隋書』にある開皇20年に倭国の使者が言ったという「使者言俀王以天爲兄 以日爲弟天 未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」(倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す…) の部分をどう解釈するかが重要である。この部分は、兄と弟という男性の兄弟の王が統治していたというように解釈する向きもあるが、古来わが国では「兄」、「弟」は、例えば「兄姫」、「弟姫」というように、男兄、男弟に限定して用いているわけではない。

この「兄」を兄姫と解釈すれば、それを推古天皇(554〜628)とすることに問題はない。そして「弟」は多利思比孤であるということになる。このような二王制、すなわち民俗学者がいうヒメ・ヒコ制がこの時代も機能していたことは、斉明(皇極)と孝徳、あるいはその後の皇極と中大兄王(天智)の関係を調べれば理解できる。

すると問題は、推古天皇と聖徳太子とが実の姉弟であったかということになろう。弟に相当するとして使者が述べた、とも解釈できるが、果たしてそうであろうか。聖徳太子が虚像であるとした場合、その実像のひとつは間違いなく蘇我馬子である。その馬子は推古の弟である、などというと、とんでもない珍論と言われかねないが、『日本書紀』に記された系譜を忘れて、二人の行動を見れば、いかにも姉弟という関係なのである。記紀全般に言えることであるが、系譜記事についてはそのまま信用できるものではない。

この時代の系譜については、聖徳太子以上に実在性を問題視すべきは欽明天皇(509〜571)である。欽明天皇が葬られたという檜隈坂合陵は、その記載からも現治定の平田梅山古墳であり、推古の母である堅塩媛が合葬された檜隈大陵とは異なる。平田梅山古墳は、大王というより蘇我稲目のような大臣クラスのものである。これらの古墳の状況からすると、堅塩媛は実際には春日山田皇女と宣化天皇との間の娘であり、その夫が蘇我稲目であったことも十分想定できる。


系譜

天皇系図 26〜37代先祖
神武天皇~武烈天皇=継体天皇-欽明天皇-用明天皇-聖徳太子

兄弟
母・穴穂部間人皇女

聖徳太子(厩戸皇子)
来目皇子
殖栗皇子
茨田皇子
母・蘇我石寸名

田目皇子
母・葛城廣子

麻呂子皇子
姉妹
母・葛城廣子

酸香手姫皇女
息子
母・刀自古郎女

山背大兄王
財王
日置王
母・橘大郎女

白髪部王
母・膳大郎女

長谷王
三枝王
伊止志古王
麻呂古王

母・刀自古郎女

片岡女王
母・橘大郎女

手島女王
母・膳大郎女

春米女王
久波太女王
波止利女王
馬屋古女王

菟道貝蛸皇女
刀自古郎女
橘大郎女
膳大郎女

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。